弓道
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 「射手」という言葉を耳にして、まず心に浮かぶのは何だろう?スペインの洞窟に描かれた狩りをする人?シャーウッドの森で、薄緑色の服を身に纏い、弓矢を手にしたロビン・フッド?それとも、馬の背に跨りモンゴル平原を疾走する人?いずれにせよ、どの人も弓の中ほどを握り、頬骨辺りまでしか弦を引いていない。

 この人たちと日本の射手との際立った違いは、日本の射手は、並外れて長い弓、2mを超える、を用いることだ。弓の下より1/3ほどのところを握り、勝手(弓を射るとき弦を引っ張る方の手。引き手とも言う)が頭の後ろに行くほど、弦を大きく引き絞る。このため会に入ったときの射手の体配は、大きく広々と見え、世界でもっとも美しい弓道形式と言われる。

 弦の鳴る音は悪霊を追い払うと考えられたので、宮廷では弓と矢を用いる多くの儀式があった。12世紀からは、乗馬と弓術(今では弓道)の訓練は、武器としての鉄砲導入後も、武士の必須武術の一つであった。弓、矢は、竹から作られたので、如何に小さくても、侍の家の庭には竹が植えられていた。

 日本に、有名な弓の達人の話がある。この話は「平家物語」の一部で、平家物語は12世紀末の二大武家勢力の争乱を描写している。平家は宮島の神々を信仰し、厳島神社に宝物を寄進した。これから話す一場面は高松市近くの瀬戸内海で平家の悲惨な敗北と滅亡の直前に起きた出来事だ。

 両軍は対峙していた。平家は海上に、源氏は海岸に。夕暮れの薄暗がりの中、沖合から飾り立てた小船が一艘近づいてきた。船上には、色鮮やかな正装の美しい女房が、竿先に日の丸の扇を付け立っていた。平家の源氏に対する挑発だ。判官は、那須与一に扇を射落とすよう命じた。

 与一は当時20歳の若者で、確かな弓の腕で知られていた。しかし的は遠く、激しい北風で、波に揺り上げられ、揺り下ろされていた。両軍の侍達は、与一の首尾を注目していた。ついに与一は、弓と鏑矢を手に海中に馬を乗り入れ、目を塞いで神々のご加護を祈念した。目を開けると風も弱まり、与一はすぐさま矢を放った。鏑矢はヒューと音を立て、見事、扇の要から34センチ離れた所を射抜いた。日輪を描いた扇は空に舞い上がり、やがて、海に落ちた。これを見て、海上、海岸両軍の人々は感嘆、与一の腕を称えた。

 合戦の後、平家は滅亡した。与一はこのときの勲功の褒美として、諸国に5箇所の荘園を与えられたと言われた。

 日本の弓道場を訪ねると、胴衣と袴を着た人が大勢練習しているのを目にすることが出来る。冬には、京都三十三間堂で、晴れ着をまとった多数の若い女性が矢を放つのを目にするでしょう。流鏑馬では、与一のように、木の的を、馬を馳せながら鏑矢で射る。鎌倉鶴岡八幡宮で、この流鏑馬を見ることが出来る。相撲の取り組み後には、土俵上で、弓取り式が行われる。

参考図書
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス平家物語』、角川書店、2001
入江康平 森俊夫他『弓道指導の理論と実際』、不昧堂出版、1998
稲垣源四郎『絵説弓道全』、東京書店、1997
稲垣源四郎『やさしく教える弓道教本』、東京書店、1997
高柳憲昭『みんなの弓道』、学習研究社、2002
ケネス・クシュナー著、櫛田如堂訳『一射絶命』、ベースボールマガジン社、19
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