中国史2:アヘン戦争から辛亥革命 清朝は130年間に渡る繁栄期を実現し、領土も人口も倍増させました。しかし乾隆帝の後半には貨幣経済の発展による階層分化が深刻化し、財政難にも苦しみ、衰退期へ向かいました。末期には白蓮教徒の乱が起こりました。乾隆帝時代の1757年に貿易港が広州一港に限定されると、ヨーロッパ諸国は広州以外の港の開放など自由貿易を要求しました。特に茶などを一方的に輸入して中国貿易を独占していたイギリスはマカートニーなどを派遣しましたが、この要求は拒否されました。そこでイギリスはインド産のアヘンを大量に輸出しました。この密貿易により中国では貿易赤字と人道上の問題が深刻化しました。そこで林則徐が派遣されて取り締まると、1840年にアヘン戦争が起こりました。 18世紀後半から産業革命に入ったイギリスはアジアを従来の商業植民地としてではなく、原料供給地、商品市場として位置づけるようになりました。また、蒸気船の登場はイギリス海軍の武力を飛躍的に向上させました。アヘン戦争でイギリスは圧勝し、南京条約で5港を開港させ、香港を割譲させました。翌年の虎門寨追加条約では典型的な不平等条約を押しつけ、領事裁判権の承認、関税自主権の欠如、最恵国待遇を獲得しました。中国はフランス・アメリカにも同様な通商条約を認めざるをえず、半植民地化への道をたどり始めます。 しかしその後も交易は余り伸びず、イギリスはフランスを誘い、1856年にアロー戦争を仕掛けます。清はすぐに屈服し、一旦天津条約を結びますが、その批准使節を阻止したので、戦争は再開され、60年に北京条約を結び、天津など11港の開港、外国公使の北京駐在などを認めました。一方ロシアはムラビヨフの下で清への圧力を強化し、58年にアイグン条約を結んで黒竜江以北を領有し、60年には北京条約で沿海州を獲得し、ウラジヴォストークに拠点を築きました。さらにその後中央アジア方面へも進出します。 アヘン戦争後中国国内では重税による窮乏化や階層分化の進展により太平天国の乱が起こりました。これはキリスト教系の結社拝上帝会を組織した洪秀全が起こした農民反乱で、滅満興漢、天朝田畝制、男女の平等、悪習の撤廃などを主張しました。長江流域を制圧すると、58年南京を首都としました。しかしその後内部争いが表面化し、漢人官僚が郷里で組織した郷勇に敗れます。西欧諸国も北京条約の成立後には清に協力しました。 太平軍の鎮圧に活躍した郷勇の指導者である曾国藩や李鴻章らはこの後富国強兵を目指して洋務運動を始めました。これを同治の中興と言います。中体西用論に立ち、西洋の技術のみを利用して軍事工場の設立や鉱山開発を進めようとしました。 一方同様に開国を迫られ、不平等な通商条約を結んだ日本は明治維新に成功し、殖産興業・富国強兵に努め、立憲国家を樹立しました。日本は積極的な対外進出策をとり、朝鮮に開国を迫りました。朝鮮の内部では内争が激しくなり、これに干渉した日清の対立も深まりました。甲午農民戦争を契機に日清両国は出兵し、1894年に日清戦争が起こりました。これに勝利した日本は大陸侵略の足場を朝鮮に築きました。 日清戦争での清の敗北を契機に欧米諸国は競って利権の獲得に乗り出しました。まずロシアは、日本が下関条約で獲得した遼東半島を三国干渉で返還させ、東清鉄道の敷設権を獲得しました。ついでドイツが宣教師殺害事件を口実に膠州湾を租借すると、ロシアは遼東半島南部を、イギリスは威海衛・九竜半島を、フランスは広州湾を租借しました。さらに彼らは広範な地域への優先権を認めさせました。これに対してアメリカは中国での門戸開放・機会均等・領土保全を提唱し、経済的な進出を目指しました。 中国では日清戦争敗北の衝撃の中で日本の明治維新にならった制度改革を主張する変法運動が起こりました。その中心は公羊学派の康有為で光緒帝を動かして戊戌の変法を行いました。しかし改革に反対する保守派は西太后と組んでクーデタを起こしたので、改革は3ヵ月で失敗に終わりました。 改革を否定すると、現状肯定か、深刻な問題を抱えている場合は伝統主義に立ち返るかしか選択がなくなります。そこで民衆の間では排外主義的な仇教運動が高まり、義和団事件が起こりました。義和団は「扶清滅洋」を唱え、鉄道や教会を破壊し、キリスト教の宣教師や信徒を攻撃しました。これに清朝も同調しましたが、8ヶ国が連合軍を結成し、北京を占領します。敗れた清は1901年に北京議定書に調印し、巨額の賠償金を支払い、外国軍の北京駐屯を認めました。 義和団事件後、ロシアは中国東北から撤兵せず、朝鮮への圧力を強め、日本と対立しました。ロシアの進出を抑えようとしたイギリスは日英同盟を結び、アメリカもこれを支持しました。日露戦争が勃発すると、日本は奉天会戦や日本海海戦などで連勝しましたが、長期戦には耐えられず、アメリカの調停で1905年にポーツマス条約を結びました。日本の勝利はアジア諸国の民族的な自覚を高めましたが、賠償金を得られなかった日本は大陸への帝国主義的な進出意欲を増し、1910年に韓国を併合します。 義和団事件後、清朝は憲法大綱を発表し、国会開設を約束するなど、立憲制の建設への準備に取り組みました。しかしこの改革はもはや支持されず、漢民族による清朝打倒を目指す革命運動が盛んになりました。三民主義を掲げて興中会を創設していた孫文は1905年に中国同盟会を組織し、革命団体の結集をはかりました。満州皇族を中心に成立した内閣が1911年に外国の借款で幹線鉄道を国有化しようとすると、これに反対して四川で暴動が起こり、これが辛亥革命に発展しました。革命軍は帰国した孫文を臨時大総統に選出し、1912年に南京で中華民国の建国を宣言しました。清朝は袁世凱を起用して革命側との交渉に当たらせましたが、袁世凱は宣統帝の退位と共和政の維持を条件に臨時大総統の地位を譲り受けました。こうして清朝の支配は終わりましたが、専制支配を強めようとする袁と孫文らの国民党の対立は続きました。袁の死後は、列強の支援を受けた軍閥が各地に分立し、共和政は更に不安定になりました。また、周辺部では独立の動きが高まり、1924年にはモンゴル人民共和国が成立しました。 アヘン戦争とアロー戦争 1)、清朝社会の矛盾 1、乾隆帝治世の後半…官僚の腐敗・重税・食料不足などで衰退のはじまり→社会不安の増大→各地に反乱 2、 白蓮教徒の乱 (1796〜1804)…宗教的秘密結社、農民暴動と結合→清朝鎮圧に苦しむ、郷勇の編成 2)、清の貿易政策 1、康煕帝時代に海禁策解除、しかし中華の立場より朝貢貿易政策も展開 2、乾隆帝…貿易港を 広州 一港に限定(1757)→ 公行 が独占的に取引 3)、イギリスの対中国貿易 1、18世紀、中国貿易を独占… 片 貿易…中国から 茶 ・絹・陶磁器などを輸入、新大陸の 銀 を中国へ→イギリスは一方的な輸入超過 2、18世紀末、 三角 貿易推進…中国の産物をイギリス本国へ、本国の 綿織物 をインドへ、インドの アヘン を中国へ 3、産業革命の進行…自由貿易時代の招来→東インド会社の中国貿易独占権廃止、中国への貿易改善交渉… マカ−トニ− ・アマ−ストらの派遣→清朝拒否 4)、アヘン戦争(1840〜42) 1、アヘン密輸の激増…大量の 銀 の国外流出、人道的な問題 2、 林則徐 …アヘン貿易の取締り→アヘンの没収廃棄・イギリス商人の一般貿易禁止 3、戦争→イギリスが近代的兵器で勝利 5)、 南京条約 1、 5港 の開港… 上海 ・ 寧波 ・福州・厦門・広州 2、香港の割譲、賠償金支払い、公行の廃止 6)、虎門寨追加条約(1843) 1、不平等条約… 領事裁判権 の承認、 関税自主権 の欠如、最恵国待遇 2、翌年フランスと 黄埔条約 、アメリカと 望厦条約 締結…同様な内容 7)、アロー戦争(第二次アヘン戦争、1856〜60) 1、背景…イギリスの利益不十分、清の条約違反 2、アロー号事件・フランス人宣教師殺害事件→英仏の共同出兵→天津条約→批准をめぐり再戦→北京の占領→ロシアの調停→ 北京条約 締結 8)、北京条約(1860) 1、清に対等な国交と貿易の自由を確認させる 2、公使の北京駐在 3、開港場の増加… 11 港の開港 4、 キリスト教 の布教の自由 5、 九竜半島 の一部をイギリスに割譲 6、外国商品の大量流入→中国の社会・産業は深刻な危機に直面 太平天国の興亡と洋務運動 1)、太平天国の動乱の原因 1、 アヘン 戦争の出費と賠償→銀価の高騰 2、強国の安い工業製品の流入→農民の副業に打撃 3、民衆の窮乏…失業者や流民の増加、地方の治安混乱→清政府への不満 2)、太平天国 1、 洪秀全 …キリスト教的結社 拝上帝会 を組織→農民を率いて中国南部で反乱→武漢・南京を攻略→太平天国の建設、都は 天京 (南京)→華北に進出 2、政策…滅満興漢、キリスト教と中国固有の思想の調和→ 天朝田畝制度 (土地の均分)、男女の平等、悪習の撤廃→民族運動の源泉 3、内紛…新政策の実施不可能→内外の支持失う 4、郷勇の活躍… 曾国藩 の湘軍、 李鴻章 の淮軍、左宗棠の楚軍 5、 ゴ−ドン …常勝軍組織、アロ−戦争終結後援助→活躍 3)、洋務運動 1、太平天国の動乱で清朝の権威失墜→漢人官僚の政治的地位上昇…曾国藩、李鴻章、左宗棠など 2、富国強兵のためにヨ−ロッパの技術の導入 3、 中体西用 論…政治や精神の改革を避け、近代的な軍隊・軍事工場の導入に重点 4、 同治の中興 …平和状態一時続く→旧体制の延命策 日本の変革と大陸進出 1)、明治維新(1868) 1、 ペリ− の来航(1853)→攘夷・開国をめぐる争い→開国断行→日米和親条約(1854)…下田・函館の開港、最恵国待遇→日米修好通商条約(1858)…開港場の増加、治外法権の承認、関税自主権の喪失→安政の五カ国条約 2、明治維新…西欧近代文明導入→殖産興業・富国強兵→近代工業建設→立憲国家の樹立 3、対外政策…台湾出兵(1874)、千島・樺太交換条約(1875)、 琉球 の領有1879) 2)、朝鮮の開国 1、党争による政治動揺、農村での飢民の増加→社会不安増大→洪景来の乱(1811〜12) 2、19世紀後半、欧米諸国の開国要求→大院君、拒否→失脚 2、日本の開国要求…不平士族を背景に征韓論→失敗、内治優先 3、 江華島事件 (1875)→日朝修好条規…領事裁判権、釜山など3港の開国→清、宗主権主張 3)、日清戦争(1894〜95) 1、朝鮮内部の対立激化… 事大党 (閔氏中心、親清派)と 独立党 (金玉均中心、親日派)の対立→壬午の軍乱・甲申政変など 2、 甲午農民戦争 (1894、東学党の乱)…両国出兵→開戦→日本の勝利 3、下関条約(1895)…朝鮮の独立承認、 遼東半島 ・ 台湾 ・澎湖諸島割譲、2億両の賠償金、最恵国待遇、日本の開港場での企業の設立許可 4、影響…清朝の弱体暴露、日本の国際的地位の向上、黄禍論 中国利権の争奪 1)、列強の進出 1、 日清戦争 の敗北…「眠れる獅子」の弱体暴露→進出の強化 2、借款…鉄道・鉱山などの利権獲得→資本の投下、金融支配 3、租借地、勢力範囲の設定→中国を分割 2)、列強の中国分割 1、1895年以前の状況…ポルトガルは マカオ 、イギリスは 香港 ・九竜半島の一部を領有 2、 三国干渉 …ロシア・フランス・ドイツ→日本の遼東半島進出阻止、黄禍論 3、ロシア… 三国干渉 の代償として 東清鉄道 の敷設権(1896)→ 遼東 半島南部の租借(1898)→東北地方の利権 4、ドイツ…宣教師殺害事件→ 膠州湾 の租借(1898)、 山東 地方の利権 5、イギリス… 威海衛 (25年間)・九竜半島(新界、99年間)の租借(1898)、長江流域の利権 6、フランス… 広州湾 の租借(1899)、華南の利権 7、日本… 福建 省方面の利権 3)、アメリカの進出 1、 モンロ−教書 以来の不干渉主義→南北戦争後の急激な工業発達→海外市場の必要 2、 米西戦争 (1898)…フィリピンの領有→中国に関心 3、国務長官 ジョン=ヘイ …3原則提唱( 門戸開放通牒 )… 門戸開放 ・ 機会均等 (1899)、 領土保全 (1900)→中国に経済的に進出 変法運動と義和団事件 1)、変法運動(1898) 1、契機…清仏戦争・ 日清戦争 の敗北、列強の進出→清の弱体暴露→一部の知識人が改革の必要を痛感→立憲運動…明治維新を模範、抜本的な改革 2、中心人物… 公羊 学派の 康有為 や梁啓超など→光緒帝に進言 3、内容…立憲君主体制の樹立 2)、戊戌の政変 1、 西太后 ら保守派のクーデタ 2、光緒帝の幽閉→新政(百日維新)の失敗→排外主義の展開 3)、義和団事件(北清事変、1900〜01) 1、背景… 仇教 運動(反キリスト教運動)、列強の露骨な進出への反感 2、義和団…排外的な宗教結社 3、 山東 から蜂起…「 扶清滅洋 」のスローガン→北京・天津へ 4、清朝…反乱軍を支持、列国へ宣戦→ 8 ヵ国の共同出兵→北京占領 5、 北京議定書 の調印(辛丑和約)…巨額の賠償金・外国軍の 北京 駐留など →中国の半植民地化 日露戦争と日本の韓国併合 1)、日露戦争(1904〜05)の原因…国際的背景 1、朝鮮と中国東北部をめぐる日本とロシアの帝国主義戦争→日露関係の悪化 2、ロシアが 三国干渉 で日本の遼東半島進出を阻止 3、ロシア軍が義和団事件後も 満州 から撤兵せず、朝鮮に圧力 4、朝鮮(1897年からは大韓)の政争…親露派と親日派 5、国際的対立 米・英 + 日 vs 露 + 仏 日英 同盟 露仏 同盟
1902〜21 1891〜 2)、経過 1、1904年に開戦→ 奉天 会戦・ 日本海 海戦→日本の勝利、しかし国力・兵力に限界 2、ロシア… 血の日曜日 事件で第一革命(1905)→戦争遂行の余力なし 3)、結果 1、アメリカ大統領 セオドア=ローズヴェルト の仲介・斡旋 2、 ポーツマス 条約(1905)…ロシアは日本の 韓国 における優越権承認、 遼東半島南部 の租借(関東州)、 南満州鉄道 の敷設権、 南樺太 の領有権、沿海州・カムチャッカの漁業権、賠償金なし 4)、影響 1、韓国への干渉強化…3次にわたる 日韓協約 (1904・05・07)→反日義兵闘争→武力鎮圧→韓国統監伊藤博文の暗殺( 安重根 )→ 韓国併合 (1910)…朝鮮総督府が統治 2、国際情勢の変化…ロシアの後退→ドイツの進出表面化→ 英露協商 (1907)→日露協約(1907)→日米対立→ 移民 排斥運動 3、アジア民族運動への刺激→中国・インド・トルコ・イランなど 辛亥革命と中華民国の成立 1)、清朝の改革 1、諸改革… 科挙 の廃止(1905)、新軍設置(1906)など 2、立憲準備… 憲法大綱 の発表(1908)… 国会 開設公約→責任内閣制(満州人貴族中心) 3、満人支配の延命策→不評 2)、革命勢力の成長 1、革命運動… 華僑 ・留学生が中心→清朝打倒、漢民族の主権国家の建設 2、革命結社の成立…孫文の 興中会 、黄興の華興会など、運動に統一性なし 3、日露戦争の刺激→革命的諸団体の結集→ 中国同盟会 の結成(1905)→孫文の 三民主義が指導原理… 民族 の独立・ 民権 の伸長・ 民生 の安定 3)、辛亥革命(1911、第一革命) 1、勃発…外国借款による幹線鉄道国有化計画→民衆の反感→ 四川 で暴動→ 武昌 の軍隊反乱(10.10.)各省の独立宣言 2、経過… 孫文 が臨時大総統に就任→ 中華民国 の建国(1912、南京に首都)→民主的憲法の制定→清朝は 袁世凱 を登用、革命の鎮圧→清朝から軍・政の全権委任→革命政府と密約→ 宣統 帝(溥儀)の退位→清朝の滅亡 4)、革命直後の情勢 1、 袁世凱 …臨時大総統に就任、首都を 北京 に→外国勢力と結合→革命派の弾圧→独裁権強化 2、革命派…中国同盟会の解散→合法政党として 国民党 と改称 5)、第二革命(1913) 1、革命派の反抗→ 国民党 の弾圧→第二革命を制圧 2、袁世凱…正式に大総統に就任 3、 中華革命党 の結成(1914)…孫文、東京で→のちに中国国民党 6)、第三革命(1915) 1、袁世凱… 二十一ヵ条 要求の受諾→ 帝政 復活宣言 2、内外の激しい反対→ 帝政 の取り消し→病死 7)、軍閥割拠の形勢 1、軍閥政治の展開(1916〜28) 2、帝国主義諸国…それぞれ軍閥政権の支援→利権の拡大
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