中国史3:文学革命から第二次世界大戦の終結

 第一次世界大戦による列強の勢力後退は東アジアに好景気をもたらしました。日本では工業生産が大幅に伸び、中国では民族資本が成長しました。都市労働者が増加し、社会運動・民族運動が活発化しました。一方日本はこれを対外進出の機会ととらえ、ドイツに宣戦し、その中国での租借地膠州湾と太平洋上の南洋諸島を占領しました。さらに日本は中国に対して山東のドイツ利権の継承など二十一カ条の要求を突き付けました。これはそのまま認めると中国の植民地化を意味するもので、袁世凱は初め拒否しました。この内容が国際的に明らかになるのを恐れた日本は修正するとともに最後通牒により受諾を強要しました。

 中国人の対日感情が悪化すると同時に、辛亥革命後の混迷への危機感が高まり、民衆の自覚に基づく根本的な社会変革を目指す文学革命運動が起こりました。儒学道徳が批判され、白話運動が展開されました。パリ講和会議で二十一カ条要求の廃棄が退けられると、まず北京大学の学生が抗議デモをおこない、それに刺激されて日本商品の排斥やストライキが全国的な規模で展開され、五・四運動が起こりました。

 大衆運動の高まりの中で孫文は1919年に中国国民党を再結成し、1921年には中国共産党も結成されました。ソヴィエト政権がカラハン宣言を発表すると、孫文はこれを歓迎し、次第に接近し、1924年には国民党を改組し、「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、第一次国共合作に踏み切りました。これにより国民党の勢力は伸びますが、翌年孫文は死亡してしまいます。上海で五・三〇運動が起こると、反帝国主義運動の高揚の中ですでに国共の反発も芽生え始めます。

 1925年に国民党は広州に国民政府を樹立し、翌年蒋介石が国民政府軍を率いて北伐を開始しました。軍閥の打倒は順調に進み、1927年には南京・上海を占領します。しかし国共の対立は深まり、蒋介石は上海クーデタを起し、共産党を弾圧して南京に国民政府を樹立しました。蒋介石は1928年に北伐を再開し、山東での日本の妨害に苦しみながらも北京に迫り、奉天軍閥の張作霖を破りました。日本は東北部へ引き上げる途中の張作霖を列車ごと爆殺して東北部の支配を計ります。後を継いだ張学良は日本に対抗し、国民政府の東北支配を認めたので、国民政府の全国統一が達成されます。蒋介石は浙江財閥と結び、アメリカ・イギリスの支援のもとに国民党の一党支配による統一政権を目指します。

 一方共産党は国共分裂後都市部での蜂起を試みましたが、いずれも失敗し、農村でソヴィエト政権をつくる方針に転換します。1931年には江西省の瑞金に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を設立しました。

 日本は戦後に反動でアジア市場の縮小に苦しみ、さらに1923年には関東大震災に遭遇します。他の国々は翌年から相対的安定期に入って経済が改善していくのに対して、日本は貿易が不調のままでした。1927年には金融恐慌が発生し、さらに世界恐慌に追い打ちをかけられます。軍部は経済危機を大陸での支配権拡大で解決しようとします。1931年関東軍は柳条湖事件を契機に満州事変を起こします。中国の提訴でリットン調査団が派遣されると、関東軍は既成事実をつくるため、満州国を建国します。調査団が日本の軍事行動を自衛権の発動を越えるものと判断すると、日本は33年に国際連盟を脱退し、華北への侵攻を強め、国内ではテロやクーデタ事件を起こし、軍部が影響力を強めました。

 中国の国民政府は1930年に関税自主権を回復し、国内の統一を目指し、満州事変などの日本の軍事行動よりも共産党との戦いに力を入れました。そのため34年には瑞金の共産党軍は延安を目指して長征を実行し、その過程で毛沢東の指導力が高まりました。35年に国民政府は英米の援助で通貨を統一し、国内統一への道を進めました。

 しかし満州事変を機に中国の抗日運動は全国に広まり、35年に共産党は八・一宣言を出して民族統一戦線の結成を呼びかけます。これに刺激された張学良は西安事件を起こし、国共は再び接近するようになりました。37年に廬溝橋事件が起こると、第二次国共合作が成立し、日中両国は全面戦争に突入しました。日中戦争で日本は37年末までに華北の要地と南京を占領します。そのさいに南京事件を起こし、国際世論の非難を浴びます。中国は英米やソ連の援助を受け、政府を南京から武漢へ、さらに奥地の重慶に移して抗戦を続けます。40年には東亜新秩序建設をかかげ、南京に王兆銘の親日政権を設立させましたが、民衆の支持は得られませんでした。日本は重要都市とそれを結ぶ交通路を確保したものの、広い農村部分を支配できませんでした。そこでは共産党の八路軍が住民とともに抵抗を続け、手を焼いた日本は三光作戦を展開するが、益々反発を買い、戦局は泥沼化していきました。

 日本はこの状況を打開するため南方への進出を企てます。40年フランスの敗北に乗じて仏領インドシナ北部へ軍を派遣し、三国防共協定を日独伊三国同盟に発展させ、翌年には日ソ中立同盟を結び、インドシナ南部にも軍を進めました。アメリカは日本の南方進出を牽制して日本への石油供給を停止し、ABCDラインを形成して対抗しました。日米交渉が行き詰まると、日本は真珠湾を奇襲し、4112月に太平洋戦争に突入しました。

 開戦後半年間で、日本はマレー半島・香港・シンガポール・インドネシア・フィリピン・ソロモン諸島を占領し、ミャンマーを征服しました。日本は大東亜共栄圏を唱え、親日政権・組織をつくらせ、協力を求めました。しかし日本の占領目的は資源収奪とそれに必要な治安確保であり、軍政のもとで、日本語教育や神社参拝の強制などを行ったので、住民の激しい反感を呼び、各地で抵抗運動に直面しました。42年にミッドウェー海戦で大敗すると、戦争の主導権を失いました。

 

第一次世界大戦と東アジア

1)、大戦中の東アジア

 1、列強資本主義勢力の後退→空前の好景気

  2、日本…工業生産の大幅な増大→農業生産を上回る→民主化の要求

 3、中国… 民族資本 の成長→大紡績工場の建設→都市労働者の増加→青年知識人の増加→社会運動・民族運動の活発化

2)、日本の対外進出の積極化

 1、対独宣戦… 日英同盟 を口実→ 膠州湾 ・南洋諸島の占領

 2、連合国などに物資供給→国内産業発展→大陸進出積極化

3、中国への進出… 二十一カ条の要求 (1915) …山東のドイツ利権の継承を名目に事実上中国の植民地化を要求→袁世凱は初めは拒否→最後通告により修正後承認→反日感情の増大

4、朝鮮への進出…韓国併合(1910〜)後に 朝鮮総督府 による武断統治

5、 シベリア出兵 (191822)

 

文学革命と五・四運動

1)、文学革命運動

 1、文学界・思想界における新文化建設のための啓蒙運動…1915年頃から、北京大学が中心→儒教道徳に基づく家族制度を厳しく批判、人間の自由と解放を強調

 2、 陳独秀 …雑誌『新青年)』を刊行

 3、 胡適 …『文学改良芻議』(1917) 白話文学 の提唱

 4、 魯迅 …『阿Q正伝』・『狂人日記』

 5、 李大サ …マルクス主義研究会創設→中国共産党創設の中心

2)、中国の民族運動

 1、パリ講和会議… 二十一カ条要求 の廃棄要求却下

 2、五・四運動…北京大学学生中心の抗議デモ…条約反対・排日運動→上海以下全国各地へ拡大→日本商品の排斥、ストライキ

 3、新しい大衆運動…反帝国主義・反軍閥運動の出発点

3)、ワシントン会議(192122

 1、パリ講和会議でみとめられた日本の山東の利権を中国に返還

 2、九ヶ国条約…中国の主権尊重と領土保全を約束

4)、韓国の民族運動

1、ロシア革命の影響、民族自決の潮流→ 三・一運動 1919、万歳事件)…知識人が日本からの独立宣言を発表、民族自決の理念の影響→民族運動の出発点

2、日本は「文化政治」に転換→経済支配は強化

5)、日本 

 1、大正デモクラシー運動の高まり…米騒動(1918)→政党内閣の誕生

 2、男性普通選挙法の成立(1925→治安維持法の成立

 

国共の合作と分離

1)、中国国民党と中国共産党の成立

 1、中国国民党の結成(1919)…指導者 孫文 、秘密結社 中華革命党 が前身

 2、中国共産党の結成(1921)…委員長 陳独秀 、コミンテルンの指導→軍閥・帝国主義の打倒、中国の独立、民主主義連合戦線の結成提唱

2)、第1次国共合作(192427)

 1、カラハン宣言…秘密条約を無効→ネップの採用→ソ連と中国の接近

 2、 国民党改組 1924)…孫文、共産党員の国民党入党を承認→ 連ソ ・容共・ 扶助工農 の三大政策発表

 3、国民党の勢力伸長…国民革命の進展→ 孫文 の死去(1925)…「革命いまだならず」→党内分裂・動揺→ 五・三○事件 勃発(上海)→広州に中華民国国民政府

3)、第一次北伐(192628)

 1、1926年、 蒋介石 を総司令官…北方の軍閥政権の打倒・中国の統一

 2、広州出発→武漢占領→南京・上海占領(1927

4)、国共分離(1927

 1、 武漢政府 樹立(2月)…国民党左派と共産党

 2、 上海クーデタ (4月)…蒋介石、共産主義勢力を弾圧→ 南京政府 樹立…主席は蒋介石、国民党右派中心

 3、武漢政府の分裂(9月)→共産主義勢力を追放→国民党左派は南京政府へ合流

5)、第二次北伐(1928

 1、北伐の再開→日本の武力干渉→ 済南 事件→北京攻略→奉天派軍閥 張作霖 の追放→関東軍による 張作霖 爆殺事件→北伐の一応完成、 張学良 の服従 

2、国民党による中国統一… 浙江 財閥(上海)の支持、米・英の援助

6)、中華ソヴィエト共和国の成立

 1、共産党の動揺…頻繁な指導者の交代→ロシア留学生派の台頭

 2、農地解放と武装蜂起の推進…1930年までに19のソヴィエト→都市工作失敗→毛沢東、農村工作重視

 3、 中華ソヴィエト共和国 臨時政府の成立(1931)… 瑞金 、主席は毛沢東 

 

日本軍部の台頭と満州事変

1)、日本の経済恐慌

 1、戦後恐慌(1920)…アジア市場縮小のため

 2、 関東大震災 1923)の被害…経済に大打撃→不況が長引く

 3、金融恐慌(1927)…銀行・会社の倒産

 4、世界恐慌の波及(1929

2)、日本軍部の台頭

 1、経済界の混乱→ 財閥 の成長、労働運動の進展

 2、政党政治の腐敗…社会不安の増大、国民の信頼失う→軍部の台頭

3)、満州事変(193132)

 1、中国東北地方の 張学良 …国民政府委員、アメリカの支援→日本勢力の排除

 2、 柳条湖事件 1931)…関東軍の計画的行動→戦争の拡大→上海事変

 3、満州国の建設(1932)…清朝最後の皇帝 宣統帝溥儀 を名目的支配者

 4、 リットン 調査団の派遣…日本の行動否認→日本の国際連盟を脱退(1933

4)、軍部の動き… 五・一五 事件(1932) 二・二六 事件(1936)

 

抗日民族戦線の成立と日中戦争

1)、中国の情勢

 1、国民政府の政治…1928年に北伐完了→満州事変に対抗しながら共産党攻撃→イギリス・アメリカの援助で 通貨 の統一(1935)→残存軍閥勢力の弱体化→国内統一の促進…実質的な統一をめざす

 2、中国共産党の動き…1931年、中華ソヴィエト共和国成立…農民の支持→国民政府軍の攻撃激化→ 長征 (大西遷、193436)の開始→毛沢東が指導権確立→ 八・一 宣言 …コミンテルン第7回大会の人民戦線戦術の影響、民族統一戦線の提唱→1936年、 延安 に到着

 3、 西安事件 1936)…八・一宣言に共鳴した張学良が 蒋介石 を幽閉→内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成要求→共産党の仲介→無条件解放→国共接近

2)、日中戦争(193745)

 1、日本の動き…1935年、冀東防共自治政府の建設

 2、 盧溝橋事件 の勃発(1937)→第2次国共合作の成立→全面戦争

 3、日本軍の優勢…華北・南京地方占領…南京虐殺事件→広州・武漢占領(1938)…重要都市と交通路だけを確保

 4、中国側の徹底抗戦…国民政府の移動…南京から武漢、さらに 重慶 (1938)→イギリス・アメリカの援助、 浙江 財閥の支持

 5、 汪兆銘 の親日政権(1940〜)…南京、大きな統治力持たず

 6、日本… 東亜新秩序 を提唱→戦争継続の資源確保のため南方へ進出

 

太平洋戦争

1)、日本の情勢

 1、日中戦争の長期化… 八路 軍の抵抗→莫大な戦費と兵員→日本経済圧迫→南方資源の確保

 2、北部仏領インドシナ進駐→ 日独伊三国同盟 の成立(1940年9月)

 3、 日ソ中立条約 の締結(1941)…北方の安全確保

 4、南部仏領インドシナ進駐(7月)

 5、アメリカの石油供給停止→ ABCDライン の形成…米・英・中・蘭

 6、日米交渉…アメリカは日本の大陸からの撤兵・日本の三国同盟からの脱退を要求→ゆきづまり

2)、太平洋戦争の開始

 1、 真珠湾 の奇襲攻撃(194112月)→アメリカ・イギリスに宣戦→独・伊も対米宣戦→世界大戦

 2、日本軍の電撃戦成功→香港・マライ半島・シンガポール・ジャワ・スマトラ・フィリピン・ミャンマーなどを占領

 3、日本…「 大東亜共栄圏 」の提唱→各地に対日協力の傀儡政権樹立→当初は解放軍として支持されるが、のち抵抗をうける→治安維持と資源獲得をねらい、軍部の専横強化→現地の歴史や文化無視、日本語教育など強制

 4、国内で軍部の権力強大化→言論・報道の統制

3)、連合国の反撃

 1、 ミッドウェー 海戦(1942年6月)…日本軍敗退の転機→ソロモン沖海戦→ガダルカナル撤退(1943年2月)→第一回学徒出陣(12月)

 2、アメリカ…サイパン島の占領(1944年7月)→レイテ島上陸(10月)…神風特攻隊がはじめて出撃→ フィリピン の奪回(1945年2月)

 3、東京大空襲(1945年3月)→沖縄上陸作戦(4〜6月)→ 広島 に原子爆弾(8月6日)→ ソ連 の対日宣戦→ 長崎 に原子爆弾(9日)→ ポツダム 宣言の受諾(14日)→天皇の放送(15日)

 4、カイロ会談(194311) F.ローズヴェルト (米)・チャーチル(英)・ 蒋介石 (中)→カイロ宣言…対日処理方針…満州・台湾の返還、 朝鮮 の独立