儒学の変遷

黄河の流域を支配し、諸邑連合の盟主として神権政治を展開した殷に取ってかわった周は、血縁関係に基づく封建制度を確立しました。一族・功臣を全国の要所に配置して諸侯とし、宗法により秩序を保ちました。各地で周の一族がさらに血縁関係を構築し、それに立脚してにらみを効かして支配を強化していました。時とともに血縁関係が薄れ、次第に諸侯が独立し、春秋戦国時代と言う下剋上の乱世になります。春秋戦国時代に諸子百家が台頭しますが、その最初が孔子による儒家でした。他はこれに対抗する形で成立しました。孔子は死後の世界には関心を示さず、現実的に考えたので学問の祖とも言われています。彼は周代の封建制度を理想化し、そこへ立ち返ることにより秩序の回復を目指しました。仁や忠孝が強調され、本来家族内・一族内の秩序の原則が国を治める原理として確立されました。皇帝は大本家の家父長として全人民を身内として支配する仕組みが理想とされました。しかし乱世の中で道徳の実践は君主にとって非現実的であり、専ら家臣の教育が期待されました。それに甘んじない孔子は政治家としては成功せず、のちに教育者として有名になりました。彼の教えを受け継いだ孟子は性善説に立ち、王が自ら徳治政治を行い、民を導く王道主義を唱えました。また、それができず、秩序が乱れた場合には、革命思想も示しています。これに対して荀子は法家の影響を受け、性悪説に立ち、礼による規律維持を強調しました。

 秦が中国全土を統一すると、法家の思想に立脚し、郡県制度を採用しました。中央から官吏を派遣し、法律に基づいた信賞必罰の政治を行い、あらゆることを統一しようとしました。思想の統制も目指され、焚書・坑儒が起こりました。復古的な儒家は特に法治主義を情の通わない政治として批判したので、厳しく取り締まられ、儒学の教典は姿を消します。

秦が余りに急激な改革や大規模な土木工事・外征により短期間で滅んだ後、漢が成立します。劉邦は郡県制度と封建制度を併用した郡国制度を採用しました。しかし要所に配置された一族の諸侯はその後独立をしようとして呉楚七国の乱を起こします。これを平定した武帝は実質的に郡県制度を実施しながらその担い手である官吏には儒学の教養を要求し、新たな調和・融合を達成します。この体制は以後の王朝により基本的に継承されます。武帝は儒学を官学化し、董仲舒の献策で五経博士を設置し、郷挙里選を採用し、元号を使い始めました。漢は外戚出身の王莽により中断します。彼の建国した新は周の政治を理想化して復古的な政治を目指しました。土地の公有、抑商、官制・地名の改革などが行われましたが、時代錯誤で混乱を招き、赤眉の乱により滅びます。後漢を再建した劉秀光武帝は豪族連合の上に立ち、内政を重視し、徐々に勢いを回復していきました。後漢時代には訓詁学が発達し、鄭玄などが活躍しました。しかし教典が整備され、解釈が統一されると、形式化・固定化が進みました。また、末期に外戚・宦官がはびこると、儒学者は気節のある官僚としてこれを批判し、党錮の禁(166169)で弾圧されました。

 魏晋南北朝時代になると、再び乱世となり、儒学を研修しても出世できなくなり、儒家は衰えます。官吏にとって重要な九品中正法が魏で制定されますが、チェックの強化が生かされず、かえって家柄を固定して貴族化を進展させました。また晋では漢の郡国制にならって封王制が採用されたが、諸侯は独立し、八王の乱が起こり、混乱を深めました。乱世の中で人生の意味を問う哲学的な仏教が広まり、これに触発されて道教が成立します。この影響を強く受け、清談が流行し、文化人は世俗を超越して趣味の世界に生き甲斐を見いだそうとしました。

 隋・唐時代になると、科挙制が制定され、儒学の教養を中心に試験により官吏が任用されました。再び儒学は盛んになり、厳しい受験競争が展開されました。また訓詁学が盛んになり、孔頴達により大成されました。

 唐末五代の混乱をおさめて宋が建国されると、従来の武断政治を克服するために文治主義が採用され、文官が優遇されました。科挙が整備され、殿試が導入され、形勢戸と呼ばれた新興地主層が官戸になり、活躍しました。しかし宋の消極的な平和主義は周辺の異民族を台頭させ、その対策に苦しみます。このような状況の中で社会秩序を正そうとする宋学(朱子学)が起こり、従来の五経に代わり四書を重んじ、宇宙万物の正しい本質に迫ろうとしました。朱子学は主知主義に立ち、理気二元論の克服を目指し、華夷・君臣・父子などの区別を重視する大義名分論を唱えました。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、周辺諸国にも影響を与えました。

 元が成立すると、モンゴル人第一主義が採用され、モンゴル・色目・漢・南の民族的な階級差別がなされ、中国人は主要官職から排除され、科挙制度も廃止されました。その結果漢人は儒学への興味を失い、文化の多様化が進行しました。

 明が成立すると、伝統を尊重しながら皇帝親政体制が取られ、朱子学は官学化されました。また、民衆の教化のために六諭が定められました。権力を簒奪した永楽帝は大規模な国家的編纂事業を行いましたが、これは思想の固定化を招きました。16世紀初めになると、陽明学が起こりました。これは宋代の陸九を源流として、明代の実学の発展を背景に王守仁(王陽明)により大成されました。陽明学は外面的な知識や修養に頼る当時の朱子学の傾向を批判し、心即理や致良知や知行合一を主張しました。陽明学は学者のみならず庶民の間にも広い支持を得、明末には東洋のルソーと呼ばれた李贄(李卓吾)も活躍しました。しかしその主観主義的な傾向は客観性に欠け、明末清初には事実に基づく実証的な研究を重視する考証学が発展しました。この時期の考証学には異民族の征服王朝である清を打破するための方策を学問的に探る気概がありました。

 中国を制圧した清は独自の制度も創設しましたが、科挙・官制など明の制度をほぼ受け継ぎ、中央官制の要職には満漢併用を採用しました。文字の獄・禁書令や辮髪の強制などの弾圧もありましたが、中国の文化を積極的に吸収する努力をし、儒学も振興し、大規模な編纂事業をおこして学者を優遇しました。特に康煕・雍正・乾隆帝の時代に130年間に渡る繁栄を築くと、中国人の反発心は薄れ、考証学も儒学の経典の校正や言語学的研究を精密に行い、訓詁学と大差がなくなりました。しかし乾隆帝の末期から清は衰退を始め、アヘン戦争で敗北すると、列強の進出に苦しみます。日清戦争の敗北後、公用学派が台頭し、日本の明治維新を手本に立憲制度の導入を目指す変法運動を起こしました。かれらは孔子の教えは守旧ではなく積極的な改革を目指すものだとする大同思想を掲げました。しかし戊戌の変法は保守派による戊戌の政変で抑圧され、3ヶ月余りで失敗に終わりました。

 辛亥革命により中華民国が成立しますが、袁世凱が権力を奪い、独裁政治を断行しました。特に日本による二十一カ条要求後の危機的な混乱期に文学革命が起こり、民衆の自覚に基づく根本的な社会改革を目指す啓蒙運動を展開しました。そこでは西欧の近代思想や共産主義が手本とされ、儒学思想は奴隷思想として厳しく批判されました。また、第二次世界大戦後に中華人民共和国が成立すると、一時儒学は激しい弾圧を受けますが、それでも生き延び、現在でも影響力を保っています。

 

周(前世紀11〜前256)の政治

1)、陝西の渭水盆地を中心に興起→殷に代わって華北一帯を支配、都は 鎬京 →易姓革命

2)、血縁関係に基づく 封建制度 を採用…一族・功臣・土豪などに封邑

            封土の授与      封土の授与

 1、君臣関係…国王 =====  諸侯 ==== 家臣…卿−大夫−士

            貢納・軍役      貢納・軍役

 2、支配者階級は 宗族 を形成…同姓の親族が本家の家長を中心に団結

 3、 宗法 により団結を規制…嫡長子相続・同姓不婚→制度の維持→礼政一致の政治

 4、周の王室は大本家として全国を支配…後の儒家にとって理想の社会

3)、農民は土地神の 社 を中心とした村落共同体を構成

 

春秋戦国と諸子百家の成立

1)、周室の東遷

 1、中国文化の周辺普及…異民族の興起、山西、陝西の北部より侵入

 2、異民族犬戎の侵入→周、 洛邑 に遷都(前 770)…東周の成立

2)、春秋時代(前770〜前403

 1、封建制度の秩序崩壊…諸侯は次第に独立、 孔子 の『春秋』に由来→有力諸侯= 覇者…尊皇攘夷、富国強兵策推進

 2、春秋五覇…晋の文公、斉の桓公など

3)、戦国時代(前403〜前221

 1、『戦国策』に由来… 晋 が韓・魏・趙に分裂

 2、周王室有名無実化、周辺諸侯の強大化→実力万能・下剋上の時代

 3、 戦国の七雄 …斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙→秦の強大化

4)、諸子百家

 1、儒家… 孔子 が創始、周代を理想とし、家族道徳の実践によって 仁 の完成をめざし、社会秩序の回復を求めた、修身斉家治国平天下、 礼楽 の重視、 学問 の祖、『論語』

 2、諸子百家の最初…他家はこれに対抗して成立…道家、墨家、法家など

3、孟子… 性善説 、王道主義→革命思想

4、荀子… 性悪説 、礼の重視

 

秦の統一と儒家の迫害

1)、統一の背景

 1、法家の 商鞅 が変法を推進→法治主義による集権化

 2、北西方に存在→より早い 鉄器 の流入

2)、秦(前221〜前206

 1、秦王の政…華北だけでなく、本当の意味で中国全土の統一→ 始皇帝 、都は 咸陽 

 2、 郡県制度 の施行…法治主義による集権体制、全国を36郡(のちに48郡)に分け、中央から官吏

 3、文字( 篆書 )・貨幣(半両銭)・度量衡の統一

 4、言論・思想の統制→ 焚書・坑儒 …秦の中央集権化・大土木工事・外征などに反対する勢力は以前の周を理想化、その思想的中心が儒家

 

漢の政治と儒学の官学化

1)、漢の統一

 1、士大夫出身の 項羽 と平民出身の 劉邦 の対立

 2、劉邦による漢の建設…都は 長安 

 3、高祖劉邦… 郡国制度 を実施…郡県制度と封建制度の併用

 4、中央集権化の推進… 呉楚七国の乱 →平定

2)、武帝の政治(2世紀後半)

 1、実質的に郡県制度を実施官僚制による集権体制確立、しかしその担い手である官吏には儒学の教養を要求→新たな調和・融合→以後の王朝は基本的にこの体制を継承

2、儒学の官学化、 董仲舒 の献策→五経博士の設置、 郷挙里選 の採用、元号採用

3)、新(8〜23)の興亡

 1、外戚出身の 王莽 が建国…都は長安

 2、復古的な政治…周の政治を理想化→土地の公有、抑商、官制・地名の改革

 3、 赤眉の乱 …農民反乱、山東で挙兵→滅亡

4)、後漢の再建

 1、 劉秀 …豪族の援助のもとに後漢の再興→光武帝→内政重視

 2 訓詁学 の発達…後漢の馬融や 鄭玄 が著名→他の学問衰退

3、衰退…2世紀に入り幼帝が続く→外戚・宦官がはびこる

 4、 党錮の禁 166169)…宦官が儒学者を弾圧

 

魏晋南北朝の混乱と清談の流行

1)、三国時代の魏で九品中正法の成立→「上品に寒門なく、下品に勢族なし」

2)、晋(西晋、265316年)

 1、三国時代の末期に、魏の将軍 司馬炎 が建国、都は 洛陽  280年、呉を征服

 2、封王制…実質的には郡国制→ 八王の乱 300306年)

3、 清談 の流行…本来は儒家による正しい議論→乱世…儒学の衰退→仏教の発展→老荘思想の発展→竹林の七賢→政治への無関心増大

 

隋・唐の律令体制の整備と科挙制の発達

1)、唐の律令体制の整備

 1、隋の制度を受け継ぎ、中央集権化の促進・徹底

 2、中央官制… 三省六部 …中書・門下・尚書の三省と璃・戸・礼・兵・刑・工の六部

 3、地方行政組織…道・州・県の 州県制 実施

 4、法典の整備…律・令・ 格  式 の整備→律令国家体制の樹立

 5、根幹…田制としての 均田制 、兵制としての 府兵制 、税制… 租庸調制 

 5、官吏任用制度… 科挙制 の採用

2)、 科挙制 の実施

1.科挙制…九品中正法に代わる試験による官吏の採用方法、貴族の抑圧目的→厳しい受験競争→結局、貴族の子弟が上級官職独占

 2、儒学…科挙と結合→ 訓詁学 の発達… 孔頴達 『五経正義』の編纂

 3、学問・思想の固定化

 

宋の統治と朱子学の成立

1)、北宋( 9601127年)の統一

 1、 太祖趙匡胤  960年建国、首都 開封 →2代の太宗が統一完成

 2、 武断政治 の克服→ 文治主義 の展開…節度使の欠員に文官、禁軍の強化

 3、官制改革…権力の分散化、地方長官は中央から任命

 4、官僚の重用…科挙制に 殿試 の導入、形勢戸の子弟が合格→ 官戸 、士大夫階級形成→君主独裁の中央集権国家樹立

 5、外政…対外消極策の展開→1004年に契丹と和議→1044年に西夏と和議→歳貢→金の台頭

2)、文化の特色

 1、庶民文化の発達… 士大夫層 の台頭、都市の発達→文化の地方普及

 2、民族的文化の発達…異民族の圧迫→中国的な文化… 朱子学 の大成

3)、学問・思想

 1、 朱子学 (宋学・性理学)の発達

  イ、訓詁学脱却の風潮…仏教、特に 禅宗 および 老荘思想 の影響→哲理究明→ 四書 (大学・中庸・論語・孟子)の重視

  ロ、北宋時代… 周敦頤 『太極図説』、程、程頤

  ハ、南宋時代… 朱熹 『四書集注』・『資治通鑑綱目』→大成、儒学の正統

  ニ、主知主義…理(自然・社会の根底にある原則、西欧の自然の法・神の法、社会生活の拠り所としての五常=仁・義・礼・智・信)・気(実在する個物の属性)二元論の融合…気には純・不純の差、 性即理  大義名分論 、攘夷論(華夷の別)

  ホ、日本・朝鮮に影響→明代にはヨーロッパへも影響

 2、 陸九淵 の活躍…明代の陽明学の源流

 

元の支配と儒学の衰退

1)、元(12711368年)の支配

 1、支配体制…中国的統治体制継承、中央は中書省、州県制(行中書省)

 2、 モンゴル人第一主義 採用…主要官職独占

 3、 科挙 の廃止…中国人を中枢部より排除→後に復活

 4、民族的階級差別… モンゴル (政治的な支配階級)・ 色目 (西域諸国人、財政担当)・ 漢 (旧金朝治下の住民)・ 南 (南宋の遺民)

2)、文化の特色

 1、宋代の 庶民文化 継承・発展…元曲や小説の発達

 2、儒学の不振…モンゴル人第一主義、 科挙 の廃止、儒学者の冷遇

 3、西方文化の輸入…盛んな東西文化交流

 

明の政治と陽明学の台頭

1)、明の統一(13681644

 1、 洪武帝 …元を打破して建国→中国古来の伝統回復→皇帝親政体制の確立

 2、皇帝権の強化… 中書省 ・宰相の廃止、 六部 の皇帝直属、官僚勢力の増大防止

 3、朱子学の官学化→科挙制の整備

 4、法制改革… 明律  明令 の作成

 5、制度改革… 衛所制 の実施、 魚鱗図冊 (精密な土地台帳)の作成、 賦役黄冊 (戸籍・租税台帳)の作成、 里甲制 (村落行政区画)の編成

 6、民衆の教化… 六諭 を定めて儒教道徳の普及、社学を設置(地主の子弟に)

 7、対外策…海禁策の実施→貿易の統制→朝貢形式

 8、 靖難の変 13991402)…建文帝に反抗→永楽帝の勝利→ 北京 遷都、 宦官 の重用、皇帝親政を補佐する 内閣大学士 の設置、国家的大編纂事業など

2)、儒学

 1、 朱子学 の官学化→国家的編纂事業…『 永楽大典 』・『四書大全』・『五経大全』など→思想の固定化

 2、 陽明学 …王陽明、16世紀初以降盛行…心即理、 知行合一 の重視→明末に李贄(李卓吾)…合理主義、個性尊重、礼教主義の批判

 3、 考証学 …明末清初、 黄宗羲 『明夷待訪録』、 顧炎武 『日知録』

 

清の支配と儒学

1)、清朝の中国統治

 1、明の制度を多く採用

 2、独自の制度…雍正帝時代に 軍機処 の設置…合議制で重要政務→乾隆帝時代に 理藩院の整備…藩部事務機関

 3、軍制…ヌルハチ、 八旗 を編成→太宗のころ、満州・蒙古・漢軍の各 八旗 を編成→のちに漢軍の常備軍として 緑営 設置

 4、税制…地丁銀制

 5、懐柔策… 満漢併用 の採用、 科挙 の実施、学者の優遇、学問の奨励

 6、威圧策… 辮髪 の強制、 文字の獄 ・禁書令などで排満思想の弾圧、民間の宗教結社の弾圧

2)、清の学問

 1、国家的編纂事業…中国人の懐柔策として発達、『 康煕字典 』(康煕帝)、『 古今図書集成 』(康煕帝・雍正帝)、『 四庫全書 』・『五体清文鑑』(乾隆帝)

 2、 考証学 の発達

  イ、儒教古典の研究…清の思想統制、学芸奨励で発達

  ロ、明末清初… 黄宗羲 、顧炎武

  ハ、乾隆期… 銭大マ 『二十二史考異』、戴震

3)、変法運動(1898)

 1、契機…清仏戦争・ 日清戦争 の敗北、列強の進出→清の弱体暴露→一部の知識人が改革の必要を痛感→立憲運動…明治維新を模範、抜本的な改革

 2、中心人物… 公羊 学派の 康有為 や梁啓超など→光緒帝に進言

 3、内容…立憲君主体制の樹立

 

辛亥革命後の混乱と文学革命

1)、辛亥革命後の混乱

 1,袁世凱の専制政治→日本による対華二十一カ条の要求

 2、軍閥政治の展開

2)、文学革命運動

 1、文学界・思想界における新文化建設のための啓蒙運動…1915年頃から、北京大学が中心→儒教道徳に基づく家族制度を厳しく批判、人間の自由と解放を強調

 2、 陳独秀 …雑誌『新青年)』を刊行

 3、 胡適 …『文学改良芻議』(1917) 白話文学 の提唱

 4、 魯迅 …『阿Q正伝』・『狂人日記』

 5、 李大サ …マルクス主義研究会創設→中国共産党創設の中心