ファシズムの台頭 第一次世界大戦は典型的な帝国主義戦争といわれ、ドイツの3B政策とイギリスの3C政策、ドイツ・オーストリアのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラヴ主義が激突しました。これはある意味で資本主義体制の行き詰まりと考えられ、戦争に深く関わった国は戦後も大きな問題をかかえていきました。代わって比較的に帝国主義的傾向が少なく、距離を保っていたアメリカ合衆国と帝国主義を否定して新しく社会主義体制を樹立したソ連が台頭していきました。 ヴェルサイユ体制はウィルソンの十四カ条に基づき、民族自決と国際協調主義を標榜していました。しかし戦争で疲弊した英仏は自国の利益を優先し、ヴェルサイユ体制は矛盾に満ちたものになり、敗戦国ドイツを初め、植民地を余り持たないイタリアや日本は戦後経済的な困難に苦しみ、この体制に不満を持ちました。 イタリアは戦勝国でしたが、領土の拡大を実現できず、戦後のインフレーションで生活を破壊され、政府への不信が強まりました。1920年に社会党左派の指導で、労働者は社会改革を求めて工場を占拠し、貧しい農民は土地を占拠しました。この革命的な運動に対して地主・資本家・軍部は危機感を強めました。この流れの中で、ムッソリーニは1919年にファシスト党を設立し、強権的な指導者や国家による統制を主張して、中産階級の支持を集め、さらに保守派の支持を得て勢力を拡大しました。1922年にローマ進軍を試み、国王の指示で首相に任命されました。彼はその後一党独裁体制を確立し、念願のフィウメを併合し、さらにアルバニアを保護国とし、1929年にはラテラン条約を結んで、ローマ教皇庁と和解しました。国内的には独裁的に社会事業や国内開発を推進しました。1924年から世界は相対的安定期に入っていたので、彼はサーベルをがちゃつかせるだけで、ある程度の対外的成果をあげ、国内的にも安定をもたらし、評価されました。 ドイツは社会民主党を中心に左派と中間派が協力して世界で最も民主的と言われたヴァイマル憲法を作成し、民主的な共和国として再出発しました。しかし過酷なヴェルサイユ体制のもとで、政治的・経済的に不安定な状態が続いていました。特に賠償金の支払いが滞ると、フランス・ベルギーによるルール占領が行われ、これに対してドイツ政府が消極的な抵抗を試みたために、記録的なインフレーションに苦しみました。共産主義者とナチスが台頭し、革命的な状況が生まれました。 ナチス党は正式には国家社会主義ドイツ労働者党といい、オーストリア生まれのヒトラーにより指導されています。彼はオーストリアで徴兵を拒否し、ドイツ軍の一員として戦い、戦後は軍の情報部に所属して、派遣された国家主義的な労働者政党を乗っ取り、ナチス党を作り上げました。ナチスはルール占領に対して積極的な抵抗を呼びかけ、愛国主義者の支持を集め、ミュンヘン一揆を企てます。しかし連合国の干渉を恐れた政府や軍部により弾圧されてしまいます。しかし司法界にも右派が多い為、刑は軽く、牢獄でも比較的に優遇され、『我が闘争』を書き上げます。この後彼は合法的な権力奪取を目指すようになりました。一方当時財界を代表した右派のシュトレーゼマンが履行政策に乗りだし、アメリカの援助のもとでドイツの復興が始まります。 1929年に世界経済恐慌が起こると、基礎の安定していないドイツ経済は破滅的な状況になり、国民生活や議会政治は混乱しました。ナチス党や共産党が勢力を伸ばし、国会は機能麻痺に陥りました。議会に多数派の基盤を持たず、大統領の非常大権に依存したブリューニング政権が成立し、賠償金の支払いを続けるために厳しい緊縮財政政策を行いました。ナチス党はユダヤ人排斥、ヴェルサイユ条約破棄、民族共同体建設による国民生活の安定を唱え、その巧みな大衆宣伝により躍進し、1932年にはついに第一党になり、翌年ヒトラーは首相に任命されました。 新政府は国会議事堂放火事件を利用して、共産党など左派勢力を弾圧し、全権委任法によって国会の立法権を政府に移し、さらにはナチス党以外の政党を解散させて一党独裁を実現しました。1934年にヒンデンブルク大統領が亡くなると、ヒトラーは大統領の権限も合わせて総統になりました。ナチスは二度に渡る四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン建設などの大規模な土木事業をおこして失業者を急速に減らし、国民の支持を得ました。そのさいにヒトラー=ユーゲントなどを経て成長したエリートが重要な役割を果たしました。 対外的には、軍備平等権が認められないことを理由に1933年に国際連盟から脱退し、35年には住民投票によってザール地方を編入しました。同年、ナチスは徴兵制を復活し、再軍備を宣言しました。これに対してイギリスは初め他の諸国とともに抗議しましたが、まもなくドイツと海軍協定を結んで、事実上再軍備を追認しました。1936年にドイツは仏ソ相互援助条約を理由にロカルノ条約を破棄し、ラインラントに軍を進駐させ、ヴェルサイユ体制の破壊を進めました。 恐慌によって行き詰まったイタリアは対外侵略によって苦境を脱しようとして、1935年にエチオピアに侵攻し、翌年全土を征服しました。イタリアはナチス=ドイツへ接近し、36年にベルリン=ローマ枢軸が結成されました。同年にスペイン内乱が起こると、両者はフランコを公然と支援し、37年に三国防共協定が成立します。 ドイツは1938年にドイツ民族統合を名目にオーストリアを併合し、さらにドイツ人が多く居住するチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求します。イギリスのネヴィル=チェンバレン首相は宥和政策を取り、ミュンヘン会談でこの要求を認めました。ヒトラーはそのさいにドイツはこれ以上の要求はしないと確約したにもかかわらず、翌年チェコスロヴァキアを解体しました。さらにポーランドにダンツィヒとポーランド回廊の返還を要求しました。英仏は宥和政策の限界を認め、軍拡を急ぎ、ポーランドとギリシアに安全保障を約束しました。英仏はソ連とも軍事同盟の交渉に入りましたが、不信感を抱いていたソ連は独ソ不可侵条約を結んで、世界を驚かせました。これに力を得て、ナチス=ドイツはポーランドに侵攻し、英仏は直ちに宣戦し、第二次世界大戦が始まりました。 ドイツ軍は機甲部隊を活用した電撃戦により1940年4月にデンマーク・ノルウェーに、5月にオランダ・ベルギーに侵入し、6月にはパリを占領しました。フランスの北半はドイツに占領され、南半はペタンの率いるヴィシー政府が統治することになりました。これをみてイタリアも参戦しました。イギリスではチャーチルが新首相となり、徹底抗戦を貫き、激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止しました。41年にはドイツはイタリアを支援してバルカン半島に進出し、ユーゴスラヴィアとギリシアを占領しました。ソ連との緊張が高まる中、ドイツはソ連を奇襲し、独ソ戦を始めます。これを機にソ連はイギリスと同盟を結び、43年にはコミンテルンを解散しました。 短期戦に失敗したドイツは、戦争経済を支えるためにヨーロッパの占領地から工業資源や食糧を奪い、数百万の人々をドイツに連行して強制労働につかせました。また、支配地域にも人種主義政策を強制し、多数のユダヤ人やスラヴ系の人々をアウシュヴィッツなどの強制収容所で殺害しました。そのさいに生存圏の構想が重要な意味を持っています。ドイツの支配に反抗して、各地でレジスタンスやパルティザンの運動が組織されました。 太平洋戦争の開始とともに、ドイツ・イタリアもアメリカ合衆国に宣戦し、枢軸国と連合国の戦争となり、文字通りの世界大戦になりました。1942年の後半から連合国は総反撃に移り、翌年初めにソ連軍はスターリングラードでドイツ軍を降伏させました。一方アメリカ軍はミッドウエイの海戦後、太平洋地域で日本軍を次々と破っていきました。北アフリカに上陸した連合軍がイタリア本土に迫ると、ムッソリーニは国王から解任され、新しく成立したバドリオ政府は無条件降伏しました。44年にアイゼンハウアー指揮下の連合軍はノルマンディーに上陸し、パリを解放し、ド=ゴールが臨時政府を組織しました。連合国は大西洋憲章をもとに会談を繰り返し、作戦や戦後処理について話し合い、ついに1945年5月にドイツを無条件降伏させました。 ヴェルサイユ体制 1)、パリ講和会議(1919) 1、基本精神…アメリカ大統領ウィルソンの 十四カ条 … 秘密 外交の廃止・ 海洋 の自由・軍備縮小・ 民族自決 ・国際平和機構の設立など→国際協調主義 2、3大国による運営…英仏は自国の利益を優先、植民地維持、報復的態度 2)、ヴェルサイユ条約…ドイツに対して極めて過酷な講和条約 1、国境の変更… アルザス ・ ロレーヌ をフランスに、 ポーランド回廊 をポーランドに割譲、 ダンツィヒ を自由市にして国際連盟管理下に、ザ−ルは15年間国際連盟管理下において国民投票で帰属を決定 2、全植民地の放棄 3、軍備制限…徴兵制禁止、兵力を10万に限定、潜水艦・ 空軍 の禁止 4、賠償金…1921年に1320億金マルクと決定 イタリア・ファシスト政権の成立 1)、ヴェルサイユ体制への不満 1、戦勝国だが、 フィウメ などの領土的野心みたせず 2、戦後の経済的危機…重要資源・海外植民地の不足→国民の生活困難 2)、共産主義勢力の増大 1、ロシア革命の影響→1920年、社会党左派(のちの共産党)指導で北イタリア工業地帯にストライキ→労働者の工場占拠→失敗→国民の信望失う 2、農村に封建的大地主の存在…南イタリアを中心に激しい土地闘争 3)、ファシスト政権の誕生 1、ファシスト党の結成(1919)…指導者 ムッソリーニ 、全体主義、反共→中産階級・復員軍人の支持→資本家・地主・軍人らが支持 2、社会党左派による北イタリアのゼネスト(1920)への攻撃・抑圧 3、 ローマ進軍 (1922)…政権獲得→選挙法改正(1923)→一党独裁 4)、ファシスト党の政治 1、 フィウメ の併合(1924)→アルバニアを保護国化(1926)→アドリア海の制圧 2、公共事業 3、 ラテラン条約 (1929)…ローマ教皇と和解→ヴァティカン市国の成立 ヴァイマル共和国の混乱とナチスの成立 1)、ヴァイマル共和国の成立 1、ドイツ革命… スパルタクス団 (のちの共産党)の革命(1919.1月)…指導者はカール=リープクネヒトや ローザ=ルクセンブルク →政府により鎮圧→ 社会民主党 中心の共和国、戦後処理→旧軍部と官僚勢力温存 2、 ヴァイマル で国民議会開催→ヴェルサイユ条約の承認、ヴァイマル憲法制定→初代大統領に エ−ベルト 選出 3、ヴァイマル憲法の制定…当時の世界で最も民主的な憲法、主権在民、男女平等の普通選挙、 生存権的 基本的人権の尊重 4、戦後の不安定…混乱、地方での社会主義政権樹立の試み 2)、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の成立 1、ヒトラ−…オ−ストリアの下級官吏の子、青年時代は芸術家志望→第一次世界大戦にはドイツ兵士として参加→戦後軍情報部、労働者・社会主義者への対策 2、ドイツ労働者党の結成(1919)→ヒトラ−の参加、主導権獲得 3、二十五カ条綱領の発表(1920)→ナチスと改称 イ、ドイツ民族の優秀性→ ユダヤ 人の排斥、民族共同体の建設 ロ、 ヴェルサイユ条約 破棄→植民地の再分配、再軍備 ハ、社会主義的政策による国民生活の安定→戦時利得の没収、利子奴隷制の廃止、トラストの国有化 ニ、議会政治の排斥 3)、ルール占領 1、ドイツの賠償金不払い→ ルール 占領(1923〜25)…フランス・ベルギー→ドイツ人の「消極的抵抗」→激しい インフレーション 2、 ミュンヘン一揆 (1923)…ヒトラーが指導、農民を中心に中産階級を支持層、一部の右派の政治家・軍人も加担→失敗 4)、インフレ−ションの克服 1、 シュトレーゼマン の挙国一致内閣の成立(1923)→履行政策 2、新貨幣 レンテンマルク の発行→インフレーション収まる 3、 ドーズ案 の成立(1924)…アメリカの援助、支払方法の緩和→ルール撤兵→相対的安定期、社会の右傾化 4、平和外交…ロカルノ条約(1925)→ラインラントの非武装化、ドイツの国際連盟加入 ナチス=ドイツの台頭 1)、世界経済恐慌とドイツの危機 1、世界恐慌の波及…ドイツの経済破綻→ ヤング案 の成立(1929)…賠償金を358億金マルクに引き下げ→フーヴァー=モラトリアム(1931) 2、ブリューニング内閣…大統領の非常大権を利用して緊縮財政政策→左右勢力の増大→軍部による独裁…シュライヒャー内閣、成果なし 3、資本家・軍部…共産主義革命の恐怖からナチスを援助→ナチスの第一党への進出(1932) 4、ヒトラー内閣の成立(1933)→ 国会議事堂放火 事件→共産党の弾圧→全権委任法を制定…一党独裁 5、ヒンデンブルク大統領の死去→ヒトラーが 総統 に就任(1934) 2)、ナチスの内政 1、第一次四カ年計画の開始(1933〜)→徴兵制の実施 2、第二次四カ年計画の開始(1936〜)…軍備強化を中心とする重工業の振興、バターより大砲を! 3、公共事業・軍需産業・徴兵制→失業克服、農民生活の安定→しかし軍需産業…消費中心、莫大な輸入超過→国民の消費生活低下→不満→対外戦争 4、秘密警察( ゲシュタポ )、突撃隊(SA)、親衛隊( SS )などによる厳しい統制…極端な民族主義、労働組合の解散→ ユダヤ 人・社会主義者・自由主義者の亡命 5、ユダヤ人の迫害…のちには アウシュヴィッツ 収容所などへ 3)、ナチスの外交政策 1、強硬外交… ヴェルサイユ 体制の破壊にのりだす→旧領土の回復、大ドイツ主義、東ヨ−ロッパに 生存圏 2、軍縮会議と 国際連盟 を脱退(1933) 3、 ザール 地方の併合(1935) 4、ヴェルサイユ条約の軍事条項の破棄(1935)→ 再軍備 宣言→これに対して仏ソ相互援助条約が結ばれる(1935)→義務兵役の復活 5、 英独海軍協定 の成立(1935)…対英35%の海軍力の保有承認 6、 ロカルノ条約 の破棄(1936)→ラインラントに進駐 ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成 1)、イタリア 1、経済的基盤弱体→世界恐慌の影響→全体主義による統制経済の実施 2、 エチオピア への侵入(1935)…国際連盟、経済制裁の決議→実行不徹底→翌年征服…国際連盟の無力 3、国際連盟から脱退(1937) 2)、スペインの内乱(1936〜39) 1、大戦中、中立を保ち利益→戦後の社会混乱で軍事政権成立→1931年、王政(ブルボン朝)が倒れ、共和国成立…政局不安定→1936年、 人民戦線内閣 の成立 2、 フランコ を中心にした右派勢力…モロッコで反乱…大地主・教会の支持 3、人民戦線とファシズムの国際的決戦の場 4、1939年、 フランコ が勝利→全体主義勢力の勝利 5、ファシズム諸国の提携… ベルリン=ローマ枢軸 の成立(1936) 大戦の勃発 1)、ドイツの侵略 1、 オーストリア 併合(1938)→チェコ領内の ズデーテン 地方併合を要求 2、 ミュンヘン会談 の開催(1938)… ネヴィル=チェンバレン (英)・ダラディエ(仏)・ ムッソリーニ (伊)・ヒトラー(独)→イギリス・フランスは 宥和 政策→ドイツの領土的要求を承認 3、 チェコスロヴァキア の解体(1939)…西半分のベーメン・メーレンの併合、東半分のスロヴァキアの保護国化 4、ポーランドに ダンツィヒ 自由市と ポーランド回廊 の割譲要求(1939) 2)、イタリアの侵略…アルバニアの併合(1939) 3)、諸外国の対応 1、ヨ−ロッパ諸小国…イギリス・フランスの態度に不信→一部はドイツに接近 2、イギリス・フランス… 宥和 政策の失敗確認→軍備拡充・ソ連邦との軍事同盟交渉→ポ−ランド相互援助条約の締結 3、ソ連邦…ドイツと 独ソ不可侵条約 締結→全世界驚愕 4)、ヨ−ロッパ戦争の展開 1、第二次世界大戦の勃発…ドイツ軍が ポーランド に進撃(1939)→英仏が独に宣戦 2、ドイツ軍の進撃… デンマーク ・ノルウェー侵入(1940年4月)→オランダ・ ベルギー 侵入(5月)→ ダンケルクの戦い …イギリス軍海路脱出→イタリアが枢軸国側で参戦→ パリ 占領(6月)… ペタン 内閣、ドイツに降伏→南部に ヴィシー 政府の成立→ イギリス を空襲(8〜11月)→ ロンメル 将軍、北アフリカで活躍(1941年2月) 3、フランスの抵抗の動き…国内では レジスタンス の抵抗運動、ロンドンでは ド=ゴール が自由フランス政府樹立 4、イギリス… チャーチル の挙国一致内閣の成立(1940年5月)→独の上陸阻止 5、アメリカ… 武器貸与法 を制定(1941)→イギリスを支援 6、ドイツのバルカン半島への侵入…ブルガリアに侵入(1941年3月)→ユ−ゴスラヴィアに侵入(4月)→ ティトー 、パルティザン闘争開始 7、 独ソ 戦の開始(1941年6月)→ドイツ軍のモスクワ攻撃(1941年10月)…失敗→ファシズムと民主主義の戦い→英ソの接近→ コミンテルン の解散(1943) 8、大西洋会談(1941年8月)… F.ローズヴェルト (米)・ チャーチル (英)→ 大西洋憲章 の発表 9、スターリングラードの戦い(1943)…ドイツ軍の敗退 |