イギリス史3:帝国主義期以降 第一次産業革命後、イギリスでは産業資本家の力が増し、自由主義的な改革が進みました。19世紀の後半には第二次産業革命が始まり、石油と電力を新しい動力源として重・化学・電気工業が発達しました。巨大な独占・金融資本が形成され、資本の輸出が始まり、対外的に進出しようとする帝国主義的な傾向が強まります。イギリスでは70年代になると、自由党のグラッドストーンが自由主義的な国内改革を進めると同時に、保守党のディズレーリはスエズ運河の株を買収し、インド帝国を形成し、対外進出を進めます。他の諸国もすぐに第二次産業革命に取り組み、特にアメリカは南北戦争後、ドイツは統一後、国家の保護のもとで急速に追い上げていきました。ヴィルヘルム2世が即位し、1890年にビスマルクを辞職させると、ドイツは世界政策を唱え、露骨な対外積極策を追求していきます。アメリカも19世紀末には世界一の工業国となり、従来のモンロー教書による孤立政策を改め、門戸開放政策を取るようになりました。このような状況の中で無理をしながらも自由貿易を標榜していたイギリスもますます帝国主義へ傾斜していきました。元々制海権を把握し続けたイギリスは有利に植民地の獲得を進めていましたが、1895年にジョセフ=チェンバレンが植民相になると、植民地との連携強化がはかられ、最も帝国主義的と言われた南アフリカ戦争を引き起こしました。ただ、植民地支配の成果もあり、国内の改革も進展していきました。 列強の帝国主義的な進出はまずアフリカ・太平洋地域へ向かいます。イギリスはウラービーの乱を鎮圧してエジプトの保護国化を進めます。さらに縦断政策を掲げてスーダンへ進出し、フランスとぶつかり、ファショダ事件を起こしますが、ここでもフランスの譲歩を引き出しました。さらに南アフリカ戦争後には南アフリカ連邦を形成し、3C政策を追求します。イギリスはすでに太平洋地域へ進出を進めていましたが、フランス・ドイツ・アメリカとの間で瞬く間にほとんど全てを分割しました。日清戦争後、列強の関心は中国へ移りますが、イギリスは威海衛・九竜半島(新界地区)を租借し、長江流域の利権を手に入れます。アメリカはこのような傾向に反対し、門戸開放政策を表明し、世界への影響力を強めていきます。しかし列強の進出は止まらず、ロシアが満州へ強引に進出すると、日英同盟を結び、日露戦争で日本を間接的に助け、これを阻止します。ロシアがその後バルカンへ方向転換すると、ドイツへの対抗のため、英露協商を結びます。 植民地への資本の輸出は現地での企業の発達をもたらし、やがて関連企業も発達させ、民族資本家を育成していきます。労働者も増加し、民族意識を高めていきます。日露戦争での日本の勝利の影響で、各地で民族運動が高まりますが、イギリスはインドやイランでこれを強引に抑えていきます。 列強間の帝国主義的対立の帰結として第一次世界大戦が起こりますが、三国協商の一員としてのイギリスは、大陸での戦闘が膠着状態になると、その制海権を生かして三国同盟を経済的に封鎖して有利に戦いを進めます。しかしその間にアメリカの経済力は圧倒的に強くなり、講和条約のさいにはウィルソンの十四カ条が指導理念となりました。イギリスはフランスとともに自国の利害を優先し、その実現を妨げ、国際的な影響力を減退させてゆきます。ただしアメリカが国際連盟に参加しなかったので、指導的な役割を担いますが、その力は限定的でした。 第一次世界大戦後、イギリスは大戦でうけた経済的な打撃から回復せず、不況に苦しみます。選挙法の改正も手伝い、戦後労働党が自由党にかわって保守党につぐ第二党となり、第一次マクドナルド内閣が成立し、短命に終わりましたが、ソ連邦の承認などを行いました。世界大恐慌が波及すると、再びマクドナルドが政権を担い、第三次マクドナルド挙国一致内閣のもとで、金本位制が停止され、ブロック経済政策が採用されます。 アイルランドは1922年には北部のアルスターを除いてアイルランド自由国として自治領になり、37年にはエールとして独立します。インドでは大戦中に自治を約束したにもかかわらず、戦後ローラット法を制定して、弾圧を強化したので、ガンディーの非暴力・非協力運動が起こりました。1929年のラホール大会ではネルーが指導権を握り、プールナ=スワラージが決議されました。35年には新インド統治法が制定されます。アフガニスタンは独立を果たしました。イランではパフレヴィー朝が成立しますが、石油の利権はイギリスに留まります。エジプトは戦後独立を回復しますが、イギリスはスエズ運河の支配権を保ちます。パレスチナ地方については大戦中にイギリスはフセイン=マクマホン協定、バルフォア宣言、サイクズ=ピコ協定という三つの矛盾した条約を結び、実際にはアラビア半島にサウジアラビア王国の建設を認め、パレスチナ地方は委任統治領とし、後まで続くパレスチナ問題の原因をつくりました。 1935年に保守党政権が成立すると、ナチス=ドイツの反ソ的態度に期待して、ドイツの要求に譲歩する宥和政策を採用しました。しかしミュンヘン会議後チェコスロヴァキアが解体されると、この失敗を認め、ポーランドの安全保障を約束しました。ドイツのポーランド侵攻とともに第二次世界大戦が始まりますが、最初ドイツの電撃作戦に押され、ダンケルクの戦いに敗れ、大陸の足場を失い、その後ドイツの空襲にさらされます。しかしチャーチルが挙国一致内閣を組織し、徹底抗戦を続け、ドイツの覇権を阻止します。1941年にはアメリカのローズベルトとともに大西洋憲章を発表し、戦後構想の原則を確立します。その後の諸会談に参加し、第二次世界大戦を勝利に導きました。 第二次世界大戦後、アメリカの指導力が圧倒的に高まり、国際連合を初めとして世界の枠組みが構築されていきました。しかし次第に米ソの対立が強まり、冷戦体制へ移行していきます。イギリスはアメリカに追随する形でその影響力を保ちます。イギリスは多大の戦費と旧市場の損失により債権国から債務国に転落してしまいます。1947年にはインド連邦とパキスタンが分かれて独立し、翌年スリランカは自治領となり、ミャンマーも独立します。1949にはアイルランド共和国が成立します。1957年にはマラヤ連邦が成立します。 国内的にはイギリスでは戦争で大きな犠牲を払った国民の発言力は強まり、1945年の総選挙で労働党が圧勝し、アトリーが首相になり、重要産業の国有化、広範な社会福祉制度の確立をはかりました。1958年にEECが成立しますが、イギリスはこれに参加せず、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA、60)を結成して対抗しました。1964年に労働党のウィルソン内閣が成立すると、スエズ以東からの撤兵を決め、経済不振からポンドの切り下げ(67)を実行しました。1968年以降には北アイルランド紛争が表面化していきます。1973年についにECへ参加し、拡大ECが発足します。1979年にサッチャー保守党政権が成立すると、国営事業の民営化、自由化路線を推進し、福祉社会の軌道を修正する政策を取りました。対外的には強硬路線を取り、ファークランド紛争を引き起こしました。経済的には立ち直りを見せましたが、増税などへの不満から1990年にメジャーへ政権を譲り、90年代の終わりには労働党に政権が移りました。 イギリスの帝国主義 1)、第二次産業革命と帝国主義化 1、イギリスの第二次産業革命…19世紀の後半、先駆けて 電気 と 石油 を動力源として 重 工業を発達→化学・電気工業に波及→ アメリカ と ドイツ による急速な追い上げ…新技術の採用困難、自由主義の伝統で企業結合の遅れ→海外投資→対外積極策 2、1870年代以降帝国主義化→保守党の第二次 ディズレ−リ 内閣… スエズ 運河の株の買収(1875)、 インド帝国 の成立(1877)、露土戦争(1877〜78)に干渉 2)、アフリカへの進出 1、エジプト経営… ウラービー の反乱(81〜82)…鎮圧、全エジプトの保護国化(正式には1914)→アフリカ縦断政策→スーダンの マフディー 派の抵抗(1881〜98)…鎮圧→エジプト=スーダン占領(99) 2、アフリカ縦断政策…カイロから ス−ダン を経てケープ植民地に到達→ファショダ事件(1898)→ 3C政策 に発展…ケープタウン・カイロ・カルカッタ 3、南アフリカ経営… ケープ 植民地をオランダから獲得(1815)→ブーア人、 オレンジ自由国(ダイヤモンド)・ トランスヴァール 共和国(1886)建設→植民相 ジョゼフ=チェンバレン とケープ植民地首相 セシル=ローズ の帝国主義的侵略→ 南ア戦争 (ブーア戦争、1899〜1902)→英の勝利→ 南アフリカ連邦 の成立(1910、自治領) 3)、太平洋地域への進出 1、オーストラリア…オランダ人の タスマン の発見(17世紀半ば)→イギリス人の クックの探検(18世紀後半)→流刑植民地→ 金鉱 の発見(19世紀半)→白豪(濠)主義→ オーストラリア連邦 の成立(1901、自治領) 2、 ニュージーランド (1907自治領)・北ボルネオ・ニューギニアの一部も領有 4)、中国への進出 1、 日清戦争 の敗北…「眠れる獅子」の弱体暴露→進出の強化、借款…鉄道・鉱山などの利権獲得→資本の投下、金融支配→租借地、勢力範囲の設定→中国を分割 2、イギリス… 威海衛 (25年間)・九竜半島(新界、99年間)の租借(1898)、長江流域の利権 3、アメリカ合衆国…門戸開放宣言(1899) 4、ロシア…義和団事件後も 満州 から軍を撤兵せず、朝鮮に圧力→日英同盟(1902)→日露戦争(1904〜05) →ロシアの敗北・後退 5)、インドの民族運動の高まり 1、イギリスのインド開発…茶のプランテ−ション、運河・鉄道の整備…本国の利益中心→インド民衆困窮、主要官職の独占による人種差別、 藩王国 ・カ−スト制度の存続→民族資本家の成長…19世紀後半以降→近代的教養→民族的な自覚 2、 インド国民会議 の結成(1885)…ボンベイ、穏健、 ヒンドゥー教徒 の有力者で構成→日露戦争の影響→反英的指導者 3、 ベンガル分割令 の公布(1905〜1911)…宗教的対立を利用した分割統治策→民族運動の積極化 4、 カルカッタ 大会(1906)…国民会議派、ティラク中心、四綱領の決議…英貨排斥・ スワデーシ(国産品愛用)・ スワラージ (自治獲得)・民族教育 5、イギリスの対策…行政面で、名目的にインド人の参加承認、 全インド=ムスリム連盟 (1906)の結成…親英的、イスラム教徒→国民会議派との分断→ ベンガル分割令 の取り消し 6)、イラン(カージャール朝) の立憲革命(1906) 1、外国利権に対する抵抗…19世紀末に反英的なタバコ=ボイコット運動→日露戦争の影響で立憲革命、憲法発布、議会開催 2、 英露協商 の成立(1907)…イギリス・ロシアの協力→軍事干渉→議会の閉鎖(1911) 7)、国内改革 1、労働党の成立 (社会主義) … フェビアン協会 の結成(1884)、ウェッブ夫妻・バーナード=ショーら→労働代表委員会の結成(1900)→ 労働党 と改称(1906)…漸進主義、温和な改革 2、議会政治の発達…自由党内閣の成立(1905)→労働党の支持で社会改革(国民保険法の制定) → 議会法 の成立(1911)…下院の優位確立 3、アイルランド問題… アイルランド自治法 の成立(1914)、自由党の努力→アルスター地方のイギリス人が反対、 シン=フェイン党 独立主張→第一次大戦を理由に延期 第一次世界大戦 1)、開戦と列国の参戦(1914〜18) 1、 サライェヴォ事件 (1914)→オーストリアがセルビアに宣戦→世界大戦 2、背景…パン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立、3B政策と3C政策の対立→三国同盟と三国協商の対立 3、イギリス…フランス・ロシアと共に27カ国で連合国形成 4、ドイツ軍… ベルギー の中立侵犯→ マルヌ の戦い→膠着状態 5、海戦…イギリスが活躍→経済封鎖→ドイツの 無制限潜水艦 作戦→アメリカの参戦 6、イギリス・フランス…植民地の資源・人員の動員→民族的自覚の高揚 2)、パリ講和会議(1919) 1、基本精神…アメリカ大統領ウィルソンの 十四カ条 … 秘密 外交の廃止・ 海洋 の自由・軍備縮小・ 民族自決 ・植民地問題の公正な解決・国際平和機構の設立など 2、3大国による運営→代表者…ウィルソン(米)・ ロイド=ジョージ (英)・ クレマンソー (仏)→英仏は自国の利益を優先、植民地維持、報復的態度 第一次世界大戦後イギリス 1)、国際的地位の低下 1、経済的打撃…ヨ−ロッパの購買力減退、植民地の生産力増大→輸出不振 2、植民地の離脱…民族運動の激化、自治領の自立化 3、戦争被害と アメリカ合衆国 から莫大な戦債→財政圧迫 2)、民主政治の進展 1、 第4回 選挙法改正(1918)… ロイド=ジョージ 挙国一致内閣、最初の普通選挙…21才以上男子と30才以上の婦人 2、 第5回 選挙法改正(1928)…21才以上男女に選挙権→ 普通選挙 の達成 3、労働党内閣の成立…大戦後不況、選挙権の拡大、 自由党 の分裂→労働党に有利→1923年の選挙で第2党に躍進→第1次 マクドナルド 内閣(1924)…自由党との連立→ ソ連邦の承認 3)、アイルランド問題 1、自治法延期→アイルランド人の抗議→ シン=フェイン党 の蜂起 2、 アイルランド自由国 の成立(1922)…北部 アルスタ− はイギリス領 3、エ−ルの独立(1937)→イギリスの承認 4)、世界恐慌以後のイギリスの対応 1、帝国会議(1926)…イギリス連邦→ ウェストミンスター憲章 の制定(1931)…本国と自治領は同等 2、第二次 マクドナルド 内閣(1929〜31)…世界恐慌波及→失業保険の削減→労働党の反対→党首除名 3、第三次 マクドナルド挙国一致 内閣(1931〜35)… 金本位制 の停止、国費節約の断行 4、排他的なブロック政策推進→ オタワ連邦会議 (1932)…ブロック経済政策の採用→スターリング=ブロックの形成 5、保守党内閣の成立…国際情勢の悪化の影響 インドでの民族運動の展開 1)、第一次大戦中・後のインド 1、イギリス…戦後の自治約束→参戦・対英協力→兵員・物資提供 2、戦争の長期化→人民の困窮化、民族資本家の成長→反英的空気増大 3、インド統治法の制定(1919)…イギリス、自治権拡大の約束不履行 4、 ローラット 法の施行…弾圧立法→民族運動激化 2)、反英・独立運動の激化 1、 非暴力・非協力 運動…国民会議派の ガンディー が指導…スト・デモ、チャルカ奨励、→ 全インド=ムスリム連盟 も同調→1924年ごろ、一時挫折…両教徒の対立、イギリスの分割統治 2、 ラホール 大会(1929)… ネルー の指導→プールナ=スワラージの方針→不服従運動…塩の進軍 3)、イギリスの対応 1、英印円卓会議の開催(1930〜32、ロンドン)→失敗 2、 新インド統治法 の制定(1935)…連邦制と各州の責任自治制の確立 4)、独立運動の障害 1、宗教的対立…ヒンドゥ−・イスラム両教徒の対立 2、インド国民会議派の内部対立 3、藩王国の存在、 カ−スト 制の存続 イスラム諸国の動向 1)、エジプト 1、1914年以来 イギリス の保護国→戦後 ワフド党 の民族運動 2、エジプト王国の成立(1922〜1952)…保護権廃止、独立承認→ スエズ運河 の管理権、治外法権などの問題是正運動展開 3、イギリス・エジプト同盟条約締結(1936)… スエズ運河 のイギリス軍駐留などを保留して完全独立達成 2)、アフガニスタン 1、1905年にイギリスに外交権→しかし、大戦中は中立 2、1919年にイギリス勢力を排除し独立達成→王国再興 3)、イラン 1、トルコ系の カージャール 朝(1796〜1925)…大戦中は中立を宣言→イギリス・ロシアの圧迫→ロシア革命後イギリスの保護国 2、1921年、 レザー=ハーン 指導の民族運動→イラン民族の パフレヴィー 朝(1925〜79)の建国→1935年、国号をイランと決定→石油利権は イギリス に 4)、アラビア半島 1、 フセイン=マクマホン 協定(1915)…アラブ人のトルコからの独立約束 2、 サイクス=ピコ 協定(1916)…英・仏・露の秘密協定→トルコ領の三国分割とパレスチナの国際管理を決定 3、 バルフォア 宣言(1917)…ユダヤ人にシオニズムに対する援助 5)、アラビア 1、大戦中、イギリス・ドイツの争奪地 2、戦後、イギリスの勢力増大… フセイン と対立→ イブン=サウード (ネジド王国の王)がイギリスの援助で半島統一 3、 サウジアラビア王国 の建国(1932〜)… ワッハーブ 派が国教 6)、委任統治領 1、イラク… イギリス の委任統治領→1932年に独立、国王ファイサル 2、トランスヨルダン… イギリス の委任統治領→1946年独立 3、パレスチナ… イギリス の委任統治領→ ユダヤ 人と アラブ 人の対立激化→パレスチナ問題の深刻化 4、シリア… フランス の委任統治領→1946年独立 5、レバノン…1920年にシリアより分離、 フランス の委任統治領→1941年独立 第二次世界大戦 1)、ファシズム諸国への対応 1、強硬外交… ヴェルサイユ 体制の破壊にのりだす→旧領土の回復、大ドイツ主義、東ヨ−ロッパに 生存圏 →ヴェルサイユ条約の軍事条項の破棄(1935)→ 再軍備 宣言→これに対して仏ソ相互援助条約の結(1935)→ 英独海軍協定 の成立(1935)…対英35%の海軍力の保有承認 2、イタリアの エチオピア への侵入(1935)…国際連盟、経済制裁の決議→実行不徹底→ 翌年征服…国際連盟の無力 3、スペインの内乱(1936〜39) …人民戦線とファシズムの国際的決戦の場→イギリス・フランス…ドイツとの戦争や共産主義の進出を恐れ不干渉主義 4、 ミュンヘン会談 の開催(1938)… ネヴィル=チェンバレン (英)・ダラディエ(仏)・ ムッソリーニ (伊)・ヒトラー(独)→イギリス・フランスは 宥和 政策→ドイツの領土的要求を承認→ チェコスロヴァキア の解体(1939)→イギリス・フランスは 宥和政策 の失敗確認→軍備拡充・ソ連邦との軍事同盟交渉→ポ−ランド相互援助条約の締結 2)、第二次世界大戦 1、第二次世界大戦の勃発…ドイツ軍が ポーランド に進撃(1939)→英仏が独に宣戦 2、ドイツ軍の進撃… デンマーク ・ノルウェー侵入(1940年4月)→オランダ・ ベルギー侵入(5月)→ ダンケルクの戦い …イギリス軍海路脱出→イタリアが枢軸国側で参戦→ パリ 占領(6月)→ イギリス を空襲(8〜11月) 3、イギリス… チャーチル の挙国一致内閣の成立(1940年5月)→ドイツの上陸をはばむ 4、アメリカ… 武器貸与法 を制定(1941)→イギリスを支援 5、大西洋会談(1941年8月)… F.ローズヴェルト (米)・ チャーチル (英)→ 大西洋憲章の発表 6、連合国首脳の諸会談に参加 第二次世界大戦後のイギリス 1、基本的な方向…以前の政治・経済構造を継承して戦後の再建を行う 2、イギリス…多大の戦費と旧市場の損失により債権国から債務国に転落→総選挙で 労働 党圧勝→ アトリー 内閣(1945〜51)… 重要産業 の国有化・社会福祉の充実、 インド連邦 の独立(1947)、アイルランド共和国の成立(1949) 3、EECに不参加→ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA、60)を結成して対抗 4、労働党 ウィルソン 内閣(64〜70)… スエズ 以東からの撤兵(植民地帝国のおわり)、国費の削減→経済不振→ ポンド の切り下げ(67)→保守党政権→1974年以降労働党政権… 第二次ウィルソン 内閣→キャラハン内閣(76) 5、保守党 サッチャー 内閣(79〜90、最初の女性首相)…国家財政の立て直し、経済の活性化→社会政策費の削減、国営企業の民営化→強硬な外交政策 フォークランド 紛争(1982)→増税への不満→メージャー内閣(1990〜97) 第二次世界大戦後のイギリスの対外政策 1)、東南アジア 1、マレー半島… マラヤ連邦 の独立(1957)→イギリス領ボルネオと合体→マレ−シア連邦の形成(1963)→ シンガポ−ル の分離独立(1965) 2、ミャンマ−(ビルマ)…大戦中、対日協力政権成立→抗日運動の展開→イギリスに対する独立要求→共和国として独立(1948)…英連邦から離脱→社会主義化、ほぼ非同盟政策 2)、南アジア諸国 1、インド…戦後の独立を約束され、大戦中イギリスに協力→国民会議派のガンディー
…統一インドを目標→国民政府案(1944)→ 全インド・ムスリム連盟 の ジンナー …パキスタンの分離を主張→両勢力の対立激化 2、インド独立法(1947)… ヒンドゥ− 教徒中心のインド連邦と イスラム 教徒中心のパキスタンの分離独立→対立抗争継続… カシミール 帰属問題など→
ガンディー の暗殺(1948)…狂信的なヒンドゥー教徒 3、インド連邦共和国…初代首相 ネルー 首相(1947〜64)→新憲法の発布(50)…カースト差別の禁止・不可触民制の廃止→
非同盟 政策を展開 4、パキスタン共和国の成立(1955)…インドとの対抗上アメリカに接近、反共 5、スリランカ(セイロン)…イギリス連邦内の自治領として独立(1948)→新憲法(72)…スリランカ共和国と改称 3)、西アジア 1、イスラム教徒が大部分…貧富の差が激しい 2、大戦中、戦火にまきこかれることが少なかった 3、民族主義運動の高揚…列強と結ぶ王政の打倒、資源の国有化(イラン・エジプト) 4、 アラブ諸国連盟 の結成(1945)…アラブ7カ国… エジプト ・シリア・イラク・レバノン・トランスヨルダン・イエメン・サウジアラビア→イスラエルに対抗 4)、パレスティナ 1、アラブ人とユダヤ人の抗争の場…第一次世界大戦中のイギリスの矛盾した政策が原因→第二次世界大戦後に対立激化→イギリス、委任統治を返上 2、国連による パレスティナ分割案 の作成(1947)→ イスラエル国 の建国(1948)→アラブ人の反発 3、 パレスティナ 戦争(第1次中東戦争)(1948〜49)→アラブ側の敗北→国連の調停→イスラエルの国連加盟(1949)→対立続く
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